共感するためのメディア、快楽としての悲劇

正月に父方の伯父、伯母を招き、夕食を共にした。(私は実家住まいである)
彼らはどちらも独身で、大抵一人で過ごしているそうだが、伯母はTVをよく見ているとの事だった。
曰く、TVを付けていると「話しかけてくれて」「共感できる」から「寂しさが消える」との事だった。
TVが視聴者それぞれに「話しかけている」かどうかや、番組の内容に「共感」出来るかどうかは大いに疑問に思うところだが、TVというメディアをそのように消費する人は少ないどころかむしろ多数派なのだろう。

先日アルジェリアで発生した人質事件で多くの日本人が衝撃を受けた。軍属でも公務員でも、自分探しの無鉄砲な若者でもない、ごく普通の一般企業に勤める社員が根こそぎ人質に取られたのだ。衝撃を受けるのは当然の事だ。
そしてそのストレスはアルジェリア軍による「解放作戦」とその結果で最高潮に達した。何人もの日本人が作戦中に亡くなってしまったのだ。

人はストレスを受けるとそれを何らかの手段で解消しようとする。そしてその手っ取り早い手段が「共感」なのだろう。
メディアは悲劇の情報を細かに、時に脚色を加え(あるいは「加え過ぎて」)、視聴者に伝える。視聴者はそれを嫌な顔をしながら受け取り、神妙な顔で「悲しみ」、そして他の視聴者も同じように思っている事を認識し、安心するのだろう。
詳らかな情報はまた、視聴者を「悲劇の主人公」に近づけさせる手助けをする。中途半端な情報で正体不明のストレスにさらされているよりも、自ら核心に近づき「納得」することで、ストレスの解消は早くなるだろう。

亡くなった被害者の実名をメディアが報道したがったのは、普段通りの「善意」を遂行したかったのかも知れない。

しかし、いくら強烈なストレスにさらされたとは言え、被害者とその家族、同僚以外は「他人」である。
当事者のストレスは想像することも出来ない。
その当事者を踏みにじり、「被害者」ぶってストレスの解消を要求するのはあまりに筋が通らないと言えないか。
身内の死を受け入れることにどれだけの時間を要するか。それを考えれば、普段の報道も、その消費も、およそ正しいとは言えない。

しかも、加えられたストレスが解消される瞬間は「快楽」となりえる。人が時に悲劇を求めるのは、そのストレスを共有する事や、共有により消化することが快楽となることも理由にあるだろう。
とすれば、普段の殺人事件や事故、そして今回の大勢の客死も、「快楽」として提供され消費される、あるいはすでにされているとは言えないか。

当事者を欺き実名を報道したメディアが糾弾されるのは当然としても、その責任を単にメディアのみ求めるのは無責任が過ぎるのではなかろうか。
今回の実名報道を招いたのは、残酷な殺人事件や凄惨な事故を「享受」していた、メディアと視聴者双方が作り上げてきた構造そのものに原因があるのではなかろうか。

One Reply to “共感するためのメディア、快楽としての悲劇”

  1. とてもざっくり書いた。

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